「越中島」の地名由来(榊原越中守の別邸があった寄洲)|何があった場所か
越中島の「越中」は富山の越中国ではなく人名とされる。隅田川河口の寄洲だったこの地に江戸初期、榊原越中守の別邸があり俗に越中島と呼ばれたと伝わる。かつて本当に「島」だった地形の記憶が名に残る。

時のながれ
- 江戸初期 — 隅田川河口の寄洲に榊原越中守の別邸(屋敷)が置かれ、俗に「越中島」と呼ばれたと伝わる。
- 明暦〜万治期頃 — 日本歴史地名大系によれば、この頃に寄洲が榊原越中守に与えられたとされる。のち高波による浸食で屋敷地として使えなくなったと伝わる。
- 元禄〜正徳 — 元禄年中に土地を盛り上げ、正徳元年(1711)以降に町が成立したとされる。
- 明治8年(1875) — 日本初の商船学校(のちの東京商船大学、現・東京海洋大学越中島キャンパス)が置かれ、越中島の名が広く知られるようになった。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 江東区の公式ページ「江東区の地名由来」で、隅田川河口にできた寄洲であり、江戸初期の一時期に播州姫路の領主・榊原越中守の別邸があったことから越中島と呼ばれた、という記述を確認した。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- この人物が姫路藩主の家の者か、旗本の榊原照清かは、資料によって表記が揺れており確定していない。ただし地名の由来が榊原越中守である点は、確認したすべての資料が一致している。
参考・出典
- 江東区の地名由来
江東区 - 越中島(コトバンク:日本歴史地名大系・日本大百科全書ほか)
コトバンク - 越中島 - Wikipedia
Wikipedia(補助資料)
近くの痕跡
- 油堀川跡(油堀川公園)(水の痕跡・約721m)
- 富岡八幡宮と永代島(深川埋立の起点)(地の痕跡・約805m)
- 波除碑(寛政の高潮が定めた「住んではいけない」境界)(水の痕跡・約886m)
- 小名木川(塩の道・万年橋)(水の痕跡・約1.7km)