曽井城跡(保曽井神社裏手の丘)|何があった場所か

四日市市曽井町、保曽井神社の裏手に広がる丘が城跡と伝わる丘城。平安末期に伊勢平氏の一族が居城としたとされ、主郭は北へ東西に延びる丘陵の頂部に置かれていたと考えられている。城そのものの遺構は判然とせず、神社境内の由緒板と道沿いの標識が城跡を示す手がかりになっている。神社より上は立入禁止のため、丘の頂部までは入れない。
時のながれ
- 文治年間(1185〜90) — 伊勢平氏の一族・志村右衛門尉曽(曽井入道)が居城としたと伝わる(城跡側の資料による)。
- 鎌倉初期 — 城主は伊勢平氏の一族として三日平氏の乱に加わり、平賀朝雅に敗れたと伝わる。
- 天正5年(1577) — 織田信長の兵火を恐れ、城の氏神が現在の保曽井神社の地へ移されたと神社の由緒板に記される。
- 現代 — 神社裏手の丘が城跡とされ、境内の由緒板と道沿いの標識が残る。丘の上は立入禁止となっている。
現地の写真



編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 神社境内の由緒板を原寸で判読し、「曽井城(城主・志村右衛門忠春)の氏神として崇められてきた」「天正五年(一五七七)織田信長の兵火を恐れ現在地に鎮座した」という記述を確認した。
そのため、このページではこうしています
- 城跡側の資料が伝える平安末期の城主・志村右衛門尉曽(曽井入道)と、神社の由緒板に記された城主・志村右衛門忠春は、時代の記載が約4世紀離れており、別の時代の人物と考えられる。由緒板が直接確認できるのは、城の氏神と1577年の移座までである。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 四日市市・三重県の公的資料では、この城についての解説を確認できなかった。
- 丘の頂部は立入禁止のため、遺構の現況は確認できていない。郭や堀切の有無を記す資料はあるが、現地では確かめられなかった。
参考・出典
- 現地由緒板(保曽井神社境内)
保曽井神社(現地掲示・2026-08-12 撮影確認) - 伊勢 曽井城/城跡巡り備忘録
個人サイト(補助資料) - 曽井城/隠れた古城
個人サイト(補助資料)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
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