日永の追分(東海道と伊勢街道の分岐・県史跡)|何があった場所か

江戸と京を結ぶ東海道から伊勢街道が分かれる分岐点。安永3年(1774)、江戸の伊勢商人・渡辺六兵衛が「参宮街道の分岐に遥拝鳥居がないのは遺憾」と私財で伊勢神宮遥拝鳥居を建てた。鳥居は式年遷宮に合わせて建て替えを重ね、現在は平成28年(2016)移建の十代目。昭和13年(1938)県史跡指定。
時のながれ
- 江戸期 — 東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿の間の「間の宿」として栄え、旅籠や茶店が軒を並べたと伝わる。
- 安永3年(1774) — 江戸の伊勢商人・渡辺六兵衛が私財を投じ、参宮街道の分岐に伊勢神宮遥拝鳥居を建立。日永村は敷地を拡げ、「鳥居地」という土地の利潤を建て替え費用に充てる仕組みを作った。常夜灯もこの頃に建てられたとされる。
- 文化6年(1809)〜 — 式年遷宮にあわせて鳥居の建て替えが重ねられていく。
- 昭和13年(1938) — 4月12日、三重県の史跡に指定される。
- 平成28年(2016) — 10月、伊雑宮の鳥居を移建して建て替え。最初から数えて第十次の鳥居となる(現地説明板)。
- 現代 — 地元自治会が管理し、毎年9月21日に鳥居祭が営まれる。手水所には今も湧き水が流れ、水を汲みに来る人が絶えない。
現地の写真





編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 現地の説明板と碑文を確認した。県史跡の指定は昭和13年4月12日である。現在の鳥居は平成28年10月に伊雑宮の鳥居を移したものである。
- 鳥居の建て替えについては、資料ごとに記述の粒度が異なる。三重県教育委員会の文化財ページは「大鳥居は伊勢神宮の遷宮のたびに建て替えられる」と記す。三重県の県史編さんによる記事は、安永3年(1774)の建立ののち、第2次を文化6年(1809)、第8次を1929年、第9次を1975年と個別の年で挙げ、「神宮の式年遷宮にあわせて実施されてきた」とする。四日市市の公式は、先代が昭和48年(1973)の式年遷宮を機に伊雑宮の鳥居を移建したもの(昭和50年)で九代目にあたり、現在の鳥居は平成28年(2016)10月の移建であると記す。
そのため、このページではこうしています
- 碑文の「久居市の出身」と三重県史の「一志郡須ヶ瀬村の出身」は、記された時代の行政区分の違いによる可能性があり、単純な食い違いにはあたらない。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 「遷宮のたび」という表現と、県史編さんが挙げる個別の年(文化6年の第2次から1929年の第8次、次が1975年の第9次)との間には開きがある。すべての式年遷宮に対応して建て替えが行われたのかは、確認できていない。
- 湧き水は今も出ており水を汲みに来る人が絶えないが、飲用の可否についての公式な記載は見つからなかった。
参考・出典
- 日永の追分
四日市市(公式) - 日永の追分(県指定史跡)
三重県教育委員会(公式) - 発見!三重の歴史 鳥居の建設費を工面
三重県(県史編さん) - 沿線紹介(日永の追分)
四日市あすなろう鉄道 - 日永の追分 - Wikipedia
Wikipedia(補助資料)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
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