日永の要塞砲(南日永こども広場・通称「大砲公園」)|何があった場所か

住宅街の小さな児童公園に、1883年(明治16年)ドイツ・クルップ社製の要塞砲が展示されている。大正13年頃に地区へ寄贈されて日永小学校の校門前に置かれ、終戦直後に地区民の手で土中へ埋められた。1981年の排水路改修工事で偶然掘り出され、いまは地区の資料として保存されている。
時のながれ
- 1883年(明治16) — ドイツのクルップ社が要塞砲として製造したと、現地の説明板は記す
- 1924年(大正13)頃 — 地区の名士が展示品として日永地区へ寄贈し、日永小学校の校門前に展示された
- 1945年(昭和20)頃 — 終戦直後、地区民によって土中に埋められた。理由は説明板にも記されていない
- 1981年(昭和56)6月 — 排水路の改修工事中に掘り出される。地区にとって貴重な資料として、この広場に展示保存されることになった
- 現在 — 住宅街の児童公園の一角にフェンスで囲われて置かれ、通称「大砲公園」として親しまれている
現地の写真



編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 現地の説明板(日永地区連合自治会)は、1924年頃に地区の名士が寄贈し、日永小学校の校門前へ展示したと記している。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 終戦直後にこの砲が埋められた理由は、説明板にも、確認できた資料にも書かれていない。武装解除を避けるためという推測が複数の個人サイトで語られているが、出典は確認できていない。
- 個人サイトには、1938年に地元の銃砲商が買い取り日永村役場前へ置いたとする記述もある。年・人物・場所のいずれも説明板と一致せず、資料の信頼性の水準も同じではない(現地に掲示されている説明板が一次資料にあたる)。
- 説明板の「西ドイツ・エッセン州」という表記は、1883年当時の呼称としても正確ではない(当時はドイツ帝国で、エッセンは都市名である)。
参考・出典
- 現地説明板(日永地区連合自治会)
日永地区連合自治会(現地掲示・2026-08-07 撮影確認) - 四日市市日永のクルップ砲
個人サイト(補助資料・年号表記に疑義あり)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
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