杖衝坂(ヤマトタケル伝承と「三重」地名由来の坂)|何があった場所か

旧東海道の急坂。古事記に、東征の帰りに傷ついたヤマトタケルが剣を杖の代わりに衝いて登ったことから名付けられたと記される坂の伝承地。「三重」の地名由来譚とも結びつき、坂上には血塚社、坂の途中には芭蕉の句碑が立つ。
時のながれ
- 古事記(和銅5年/712年成立) — 景行天皇条に、東征の帰路のヤマトタケルが「甚疲れませるに因りて、御杖を衝きて稍に歩みたまひき。故、其地を號けて杖衝坂と謂ふ」と記される。三重村での「吾が足は三重の勾の如くして甚疲れたり」の言葉が「三重」の地名由来として続く。
- 江戸期 — 東海道の難所のひとつとされ、貞享4年(1687)には馬で越えようとした松尾芭蕉が落馬し「歩行ならば杖衝坂を落馬かな」と詠んだ。
- 宝暦6年(1756) — 村田鵤州が坂の中ほどに芭蕉の句碑を建てる(明治初期に一時移設ののち元の地へ戻された)。
- 明治5年(1872) — 安濃津県の県庁が三重郡四日市へ移転し、郡名から「三重県」が誕生。古事記の伝承地はのちの県名の遠い源流となった。
- 現代 — 旧東海道の生活道路として使われ、坂上の血塚社、坂の金刀比羅宮とともに伝承を今に伝える。
現地の写真



編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 古事記では、「杖衝坂」の命名と「三重」の命名は別の記事である。杖を衝いた地が杖衝坂、「吾が足は三重の勾の如くして甚疲れたり」と言った地が三重村とされる。
- 芭蕉の句は貞享4年(1687年)、句碑は宝暦6年(1756年)に村田鵤州が建てたものである。
そのため、このページではこうしています
- この坂は国・県・市いずれの指定文化財でもない。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 古事記の記事の順では、この坂は尾津(桑名方面)より前に置かれており、実際の地理の順と合わない。確かな所在地としてではなく、伝承地としての性格を持つ場所である。
参考・出典
- 史跡遺跡 - 内部地区公式サイト
内部地区まちづくり推進協議会 - 杖衝坂
観光三重(三重県観光連盟) - 県史あれこれ21 県名「三重県」の誕生
三重県(県史編さん) - 杖衝坂 - Wikipedia
Wikipedia(補助資料)
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