占守島(玉音放送のあとに戦闘が始まった日本最北の戦場)|何があった場所か
千島列島の東端、カムチャツカ半島まで12kmの島。1945年8月15日の玉音放送のあと、上陸してきたソ連軍と武装解除準備中の守備隊の戦闘が起きた。停戦後、将兵はシベリアへ抑留された。現在は無人島で、ロシアが実効支配している。
時のながれ
- 1875年(明治8) — 樺太千島交換条約により千島列島全体が日本領となり、占守島は以後70年間、日本の北の国境の島となる。
- 1945年(昭和20)8月15日 — 玉音放送。守備の第91師団は武装解除の準備に入っていた。
- 8月17日深夜〜18日未明 — ソ連軍が島の北東岸・竹田浜に上陸し戦闘が始まる(開始時刻は資料により幅がある)。第5方面軍司令官・樋口季一郎中将は自衛戦闘としての反撃を命令。戦車第11連隊長・池田末男大佐は四嶺山方面の戦闘で戦死した。
- 8月18日夕〜23日 — 18日夕方に日本側が積極戦闘を停止、19日朝から停戦交渉、21日に降伏文書調印、23日に武装解除。
- 1945年10月中旬 — 武装解除された将兵はソ連船でシベリアへ送られ、抑留は2〜4年に及んだ(舞鶴引揚記念館・国立国会図書館レファレンス)。
- 1951年(昭和26) — サンフランシスコ平和条約で日本は千島列島に対するすべての権利を放棄。条約は帰属先を定めておらず、現在はロシアが実効支配する無人島。
- 2016年(平成28) — 占守島で収容された遺骨から初めてDNA鑑定で身元が特定される(日本経済新聞)。
- 2023年(令和5)5月 — 戦車第11連隊の慰霊碑が豊橋市から北海道千歳市の陸上自衛隊東千歳駐屯地史料館へ移設される(東愛知新聞)。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 1945年8月18日にソ連軍が上陸し、日本軍守備隊との戦闘が始まったこと、23日までに停戦・武装解除へ至ったことは、複数の資料で一致している。
そのため、このページではこうしています
- 「終戦後」「自衛戦闘」は、立場による評価を含む表現である。評価を含まない事実は、戦闘が1945年8月18日に始まったという日付である。
- 「北海道の占領を防いだ」は、樋口季一郎の回想や顕彰側の評価として伝わるもので、確認された因果関係ではない。
- 日本政府は、占守島を含むシュムシュ島からウルップ島までの島々を、サンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島に位置づけている。同条約は帰属先を明記しておらず、現在はロシアが実効支配している。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 竹田浜や四嶺山といった個別地点の正確な座標は確認できていない。現地は一般の渡航が困難な無人島である。
- この戦闘の呼び方には評価が伴う。日本側の公的な史料紹介は「終戦後」「自衛戦闘」と表現する一方、降伏手続きの途中だったことから、その整理自体を検討の対象とする研究もある。
- 死傷者数も、集計の主体・期間・範囲によって大きく異なる。
参考・出典
- 陸軍中将 樋口季一郎(史料紹介)
防衛省防衛研究所 - 井澗裕「占守島・1945年8月」境界研究No.2
北海道大学スラブ研究センター - シベリア抑留(平和学習)
舞鶴引揚記念館 - サンフランシスコ平和条約と千島列島
笹川平和財団 島嶼資料センター - 占守島の戦い - Wikipedia
Wikipedia(底本は戦史叢書44。補助資料)
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