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明石藩舞子台場跡(海峡を挟み撃ちにするはずだった砲台)|何があった場所か

位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-05

神戸市垂水区東舞子町、明石海峡大橋の本州側のたもとに、幕末の台場の石垣が残る。文化庁の国指定文化財等データベースは、名称を明石藩舞子台場跡、種別を史跡、指定年月日を2007年2月6日、所在地を神戸市垂水区東舞子町と記し、解説に「文献史料には舞子砲台ともみえる」と添える。同じ解説によれば、幕府は安政2年に大坂湾防衛計画を決め、明石藩は文久3年、将軍徳川家茂の巡見に先立って台場の改築を命じられ、一万両の貸し付けを受けて造営に着手した。工事は元治元年(1864)あるいは慶応元年(1865)に完了したとされ、二つの年が併記される。台場の縄張りと構造について同解説は、勝海舟の現地指導を受けたと記す。神戸市の文化財一覧も「勝麟太郎(海舟)の指導のもと」と書き、面積を4,353.96平方メートルと記載する。対岸との関係について文化庁の解説は、徳島藩が文久元年に淡路島北端へ築いた松帆台場と一対になり、明石海峡の防備を担うこととされたと記す。松帆台場も国の史跡であると淡路市は記す。ただし大砲が据えられることのないまま明治維新を迎えたと、文化庁と発掘調査報告書はそろって記す。神戸市教育委員会が2006年に刊行した『舞子砲台跡 第1〜4次発掘調査報告書』は、いま海岸の護岸をなす石垣が砲台右翼前面に当たり、最上端での現存長は最も長い区間で18.2メートルに達すると計測する。石垣の上部にはコンクリート製の欄干が載り、下部はコンクリートで厚く巻かれていると同書は記す。同書はまた、掘り出した石垣そのものは現地で埋め戻して地下に保存し、整備後の広場では砲台跡の平面形を石張舗装で示し、西端に下層の天端石を金網で画して露出展示し、解説サインを2か所に置いたと記す。神戸市文化財課を問い合わせ先とする2026年の紹介記事は、見学自由と案内する。石垣の平面がW字形に折れる稜堡式で、すべて石で積んだ台場は国内に他の例がないと神戸市は記す。神戸市の一覧は、市内の国指定の史跡6件のなかに、この台場と兵庫区の和田岬砲台を並べる。

明石藩舞子台場跡(海峡を挟み撃ちにするはずだった砲台)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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