蛤御門の弾痕と伝わる跡(禁門の変の最大の激戦地)|何があった場所か

元治元年(1864)の禁門の変で最大の激戦地となった、京都御苑の西側にある門。今も門に傷跡が残り、環境省は弾傷らしき跡、京都市は扉に残る当時の弾痕と説明する。門自体は明治の大内保存事業で現在の位置へ移された。
時のながれ
- 延宝5年(1677) — 古地図 新改内裏之図 に、蛤門が開いた状態で描かれている。京都産業大学が2016年に発表した。
- 宝永5年(1708) — 3月8日の未明に宝永の大火が起こり、禁裏御所や公家屋敷などが焼けた。この大火で門が開かれたことが蛤御門の名の由来と伝わる。
- 元治元年(1864)7月19日 — 長州藩と会津・薩摩・幕府の連合軍が蛤御門や堺町御門の付近で戦い、長州藩が敗れた。
- 元治元年(1864)7月21日 — 戦火は市中に広がってどんどん焼けと呼ばれ、この日に鎮火した。800か町・2万7000世帯が罹災し、東本願寺・本能寺・六角堂が焼けた。
- 明治期 — 大内保存事業により、京都御苑の外周九門が現在の位置へ移された。江戸時代末の蛤御門は外周の内側に南向きで建っていた。
現地の写真






編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 禁門の変で京都御苑一帯が主戦場となり、蛤御門が最大の激戦地であったことは、環境省の京都御苑公式ページと、京都市のフィールド・ミュージアム京都の双方で確認した。
- 元治元年(1864)7月19日に長州藩と会津・薩摩・幕府の連合軍が蛤御門・堺町御門の付近で戦い、長州藩が敗れたことは、京都市のフィールド・ミュージアム京都 都市史25で確認した。同じ資料で、戦火がどんどん焼けと呼ばれ21日に鎮火し、800か町・2万7000世帯が罹災したことも確認した。
- 京都御苑の外周九門が明治期の大内保存事業で現在の位置へ移され、江戸時代末の蛤御門が外周の内側に南向きで建っていたことは、環境省と、国民公園協会 京都御苑の公式ページで確認した。
- 蛤御門の変のようすを描いた絵図 甲子兵燹圖 が京都府立京都学・歴彩館に所蔵されていることを、国立国会図書館のレファレンス協同データベースで確認した。
- 宝永の大火が宝永5年(1708)3月8日の未明に起こり、禁裏御所などが焼けたことは、京都市のフィールド・ミュージアム京都 都市史23で確認した。
- 門の前に立つ現地の説明板を確認した。日本語・英語・中国語・韓国語の四か国語で書かれており、日本語の本文は、門の名が洛中や御所内の邸宅の多くを焼いた一七〇八年の宝永の大火にちなむこと、火が燃え盛ったときに門を開けて御所の住人が外へ逃れることができたため、焼くと口を開く蛤に例えて名付けられたことを記している(2026-08-22 撮影)。
- 同じ説明板は禁門の変について、一八六四年に京都から追放されていた長州藩の軍勢が朝廷への嘆願のために御所へ押し入ろうとして敗北・撤退したと記し、「現在でもこの門の梁や柱の部材には、戦闘の際の弾傷らしき痕を見ることができます」と結んでいる(2026-08-22 撮影)。
- 門の脇に「蛤御門」と刻んだ石標が立っていることを確認した(2026-08-22 撮影)。
- 門に残る窪みを実見した。柱にも扉にもあり、ひとつの柱に大小いくつも散らばっている。多くは爪の幅ほどの小さなもので、明かりを当てなくても見分けられる(2026-08-22 撮影)。
そのため、このページではこうしています
- 座標は蛤御門そのものの代表点で、烏丸通に面した門の位置を地図資料で特定した。
- 痕の呼び方は資料によって割れているため、写真の説明でも断定を避け、見えたままの「窪み」と書いたうえで、説明板の言い方を引用する形にした。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 門に残る傷が禁門の変の銃弾によるものかどうかを科学的に調べた公的な調査報告には到達できなかった。
- 宮内庁の京都御所公式サイトには蛤御門の項目が見当たらなかった。蛤御門を含む京都御苑は環境省が管理している。
- 説明板は痕のある部材を「梁や柱」と記すが、現地で確かめられたのは柱と扉にあるもので、高さは人の腹から頭のあたりだった。梁の高さにあるものは今回の確認では見つかっていない。見落としの可能性は残る(2026-08-22 撮影)。
- 傷の呼び方が資料で異なる。環境省の京都御苑公式ページは弾傷らしき跡と説明し、京都市のフィールド・ミュージアム京都は扉に残る当時の弾痕と説明している。
- 名の由来となった大火の年が資料で異なる。京都市のフィールド・ミュージアム京都は宝永5年(1708)の大火をあげ、宝永大火より前から蛤御門の名があったという説も併せて紹介している。京都市公式の京都観光Naviは天明の大火(1788)をあげている。京都産業大学は2016年、宝永の大火より前から蛤門の名称が使われていたとする研究発表を公開した。
- どんどん焼けの被害規模が資料で異なる。京都市のフィールド・ミュージアム京都は800か町・2万7000世帯、京都観光Naviは民家3万8000戸余、国民公園協会 京都御苑は洛中の3分の2が焼けたと説明している。
- 同じ説明板のなかでも言語によって書き方が違う。日本語の本文は「弾傷らしき痕」と留保を付けるが、英語・中国語・韓国語の本文はいずれも留保のない語(英語は bullet marks)で書かれている(2026-08-22 撮影)。
参考・出典
- 御苑案内図(蛤御門)|京都御苑|国民公園|環境省
環境省 京都御苑管理事務所(公式) - 都市史25 蛤御門の変とどんどん焼け
京都市(フィールド・ミュージアム京都・公式) - 都市史23 宝永の大火
京都市(フィールド・ミュージアム京都・公式) - 江戸時代からの外周御門|見どころ|京都御苑
環境省(公式) - 明治150年記念 禁門の変 : 京都御苑
一般財団法人国民公園協会 京都御苑(環境省 京都御苑の管理団体) - 蛤御門|京都観光Navi
京都市公式観光サイト 京都観光Navi - 京都産業大学日本文化研究所 特別客員研究員が蛤御門の名前の由来について従来の定説を覆す新説を発表
京都産業大学(公式) - 蛤御門の変(禁門の変)の様子を描いた絵図はないか?
国立国会図書館 レファレンス協同データベース(提供館:京都府立京都学・歴彩館) - 現地説明板「蛤御門」(日本語・英語・中国語・韓国語)
京都御苑内・現地掲示(2026-08-22 撮影確認)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
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