百々橋の礎石(応仁の乱で東西両軍が争った橋の跡)|何があった場所か
応仁の乱で細川勝元の東軍と山名宗全の西軍が、この橋を隔てて数度の合戦を行ったと伝わる百々橋の礎石。橋が架かっていた小川(こかわ)は昭和38年(1963)に埋め立てられて姿を消し、礎石だけが消えた川と戦乱の記憶を伝えている。

時のながれ
- 室町期以前 — 南北に流れる小川(こかわ)に百々橋が架けられる。橋名は応仁の乱以前の京都を描いた「中昔京師地図」の「百々ノ辻」に由来すると伝わる。
- 応仁元年(1467)〜 — 応仁の乱で細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の両軍が、橋を隔てて数度にわたり合戦を行ったと伝わる。
- 近世 — 古来の板橋から石橋に架け替えられる。
- 昭和38年(1963) — 小川の埋立に伴い橋も解体。礎石4基のうち1基は室町小学校校庭に、1基は旧橋畔の当地に保存され、橋の大部分は洛西竹林公園に復元された。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 京都市の公式で、応仁の乱で東西両軍が争ったこと、橋の規模(長さ約7.4m・幅約4m)、橋名が「中昔京師地図」の「百々ノ辻」に由来すること、昭和38年の小川埋立に伴って解体されたこと、礎石が2基保存されている(1基は室町小学校の校庭、1基はこの場所)ことを確認した。
- 橋材の大部分は洛西竹林公園へ移され、復元されている。
そのため、このページではこうしています
- 所在地は上京区寺之内通の百々町(宝鏡寺の南西角)である。
現地確認: 未実施
参考・出典
- 百々橋の礎石
京都市公式・京都観光Navi - 百々橋の礎石(室町小学校)
京都市立室町小学校
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 西陣(応仁の乱の西軍の陣に由来するとされる織物の町の通称)(地の痕跡・約263m)
- 薩摩藩邸跡(二本松屋敷・同志社大学西門前の石標)(地の痕跡・約757m)
- 応仁の乱 勃発地(御霊神社・御霊合戦の旧跡)(戦の痕跡・約882m)
- 堀川(平安京造営時の運河・涸れ川からの再生)(水の痕跡・約980m)