鴨川(賀茂川)の氾濫史(出雲路橋周辺・昭和10年大水害)|何があった場所か

白河法皇が思い通りにならないものとして「賀茂川の水」を挙げたと伝わるほど、氾濫を繰り返した川。寛文期(1670年頃)の新堤築造で流路が固定され、昭和10年(1935)の大水害後の抜本改修で現在の姿になった。穏やかな河川敷は治水の積み重ねの上にある。

時のながれ
- 平安期 — 鴨川はたびたび氾濫し、白河法皇が「天下三不如意」の一つに賀茂川の水を挙げたと伝わる。
- 寛文期(1670年頃) — 寛文の新堤が築造され、それまで自然に流路を変えていた鴨川の流れが固定される。現在の鴨川景観の基礎となった。
- 昭和10年(1935)6月29日 — 梅雨の大洪水で堤防が決壊し、京都市全域で死傷者83名・家屋流出187棟・浸水4万棟超の被害が出た(京都大水害)。
- 昭和11〜22年 — 抜本的な河川改修が実施され、昭和34年8月の戦後最大洪水では鴨川からの浸水被害を出さない水準に達した。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 京都府の公式で、昭和10年の大洪水の被害(京都市全域で死傷者83名、家屋流出187棟、全半壊295棟、浸水43,289棟)、昭和11年から22年にかけての抜本的な河川改修、昭和34年8月の戦後最大の洪水で浸水被害が出なかったことを確認した。
- 寛文新堤と「天下三不如意」は、京都市歴史資料館の都市史年表で確認した。
そのため、このページではこうしています
- 氾濫は流域全体に及ぶため、座標は賀茂川の出雲路橋を代表点としている。被害の範囲を示すものではない。
現地確認: 未実施
参考・出典
- 昭和10年の鴨川大洪水とその後の治水対策について
京都府 - 都市史08 鴨川
京都市(京都市歴史資料館)
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