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大和川の付け替え前の地図|昔の流れ・1704年の理由と反対した村

1704年の付け替えまで、大和川は柏原付近から北へ分かれて淀川へ注いでいた。幕府が柏原から堺の海へ延長131町(約14.3キロ)の新川を約8か月で開いた。今米村の中甚兵衛は付け替えを願い出た側の中心人物の一人で、新川の予定地の村々は家や田畑を失うとして反対した。

2026-08-29 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部
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まんがの内容は下の本文(出典つき)をもとに構成しています。

大和川は、昔から今と同じ方向に大阪湾へ流れていたわけではない。1704年の付け替え以前、下流部の大和川は柏原付近から北へ向かい、いくつもの流れに分かれて淀川へ注いでいた。付け替えによって西へ流れる新しい川筋がつくられ、現在の大和川につながっている。付け替え前の川筋を描いた地図を見られる場所は、後の節に並べた。

ただし「旧大和川」という言葉だけで、現在の地図に一本の正確な線を引けるわけではない。支流、用水、堤、防災施設、土地の改変が重なっている。

大和川はなぜ付け替えられたのか

国土交通省は、かつての大和川が石川との合流付近から西北に流れ、複数の支川に分かれて淀川へ注いでいたと説明している。川が運ぶ土砂で河床が周囲の田畑より高くなる「天井川」の状態になり、洪水が繰り返されたことが、付け替えの背景にあった。

国土交通省大和川河川事務所の付け替え300周年の資料によると、元和から元禄にかけて(1615〜1704年)、堤防の決壊などによる大水害は十数回に及んだ。

大和川河川事務所の資料によると、1704年に柏原から堺の海まで開かれた新川の延長は131町、総延長は約14.3キロメートルだった(1町は約109メートルなので、131町もおよそ14.3キロメートルにあたる)。柏原市も、海辺から付け替え地点までを14.3キロメートルとしている。工事は同じ年の二月から十月までの約八か月で終わった。

大阪府と大阪市の公開資料は、この新しい流路を約14.5キロメートルとしている。長さは資料によって少し違う。

付け替え前と付け替え後(1704年)の大和川を並べた模式図。付け替え前は柏原付近から北へ向かい、玉串川・長瀬川などに分かれて淀川へ注いでいた。付け替え後は築留から西へ、堺の海へ流れる。
付け替え前と付け替え後(1704年)の大和川を並べた模式図。付け替え前は柏原付近から北へ向かい、玉串川・長瀬川などに分かれて淀川へ注いでいた。付け替え後は築留から西へ、堺の海へ流れる。

付け替え前の大和川は、どこを流れていたのか

昔の川筋を知るときに役立つのは、一本の川として見るより「分かれる水の網」として見ることだ。国土交通省の資料では、柏原付近から西北へ流れ、玉串川や長瀬川などに分かれ、各地の川や池と合流しながら淀川へ注いでいたと説明される。

現在の地図では、旧河道の一部が水路、道路、緑道、地名として残ることがある。しかし、残り方は場所ごとに違う。「ここに水路があるから旧大和川だ」と即断せず、年代の異なる地図と公的な河川資料を重ねて確かめることが必要だ。

付け替えを求めたのは誰か — 中甚兵衛と今米村

大和川河川事務所の資料では、今米村(現在の東大阪市)の中甚兵衛らと、河内・讃良(ささら)・若江・茨田(まんだ)などの郡の代表者が、柏原の合流点から西へ、住吉・堺の方へ流す案を何度も幕府に願い出たとされる。

理由として挙げたのは、15万石を超える村々が水害をまぬがれ、元の川床に新田が開けることだった。同じ資料には、中家に伝わる貞享4年(1687)の訴状の現代語訳が載っていて、水害に苦しむ「十五万石余の百姓」を助けてほしいと訴えている。

柏原市立歴史資料館の見方は、これと少し違う。同館のコラムによると、中甚兵衛は今米村(現在の東大阪市今米1丁目)に生まれた庄屋で、付け替え運動の中心人物の一人だった。ただし、天和3年(1683)ごろまで運動を率いていたのは芝村の三郎右衛門と吉田村の治郎兵衛で、甚兵衛が中心になるのは貞享4年以降と考えられるという。

付け替えを求める運動は付け替えの17年前に終わり、川の流れを良くする工事を求める運動へ変わっていた。参加する村は、付け替えの直前には7分の1程度にまで減っていた。

同館は、付け替えを決めたのは幕府の方針であり、決定に大きく関わったのは大坂の代官で堤奉行を兼ねていた万年長十郎だとみている。甚兵衛は「普請御用」として工事に加わった。

甚兵衛の家の出自も、資料によって書き方が違う。大阪市のコラムは、延宝2年(1674)の洪水のあと今米村の庄屋・川中九兵衛らが付け替えを計画し、その死後に長男の太兵衛、三男の中甚兵衛が遺志を継いだとする。柏原市のコラムは、甚兵衛が川中家の人だったことを示す史料はないとしている。確かめる手がかりは、柏原市立歴史資料館に寄贈された中家文書にある。

甚兵衛を記念するものは二か所に残る。付け替え地点の築留(つきどめ、柏原市上市2丁目)の大和川治水公園には、平成元年(1989)に柏原ライオンズクラブが寄贈した銅像と、付け替えの記念碑がある。近鉄けいはんな線吉田駅の北の今米公園(東大阪市今米1丁目)には、大正4年(1915)に建てられた「贈従五位中甚兵衛翁碑」が立つ。

付け替え前の川筋の上に、築留(柏原市上市2丁目)と今米公園(東大阪市今米1丁目)の位置を置いた図。川筋は模式図で、2地点は実際の位置。
付け替え前の川筋の上に、築留(柏原市上市2丁目)と今米公園(東大阪市今米1丁目)の位置を置いた図。川筋は模式図で、2地点は実際の位置。

反対したのは誰で、何を恐れたのか

反対したのは、新しい川の通り道にあたる村々だった。大和川河川事務所の資料によると、予定地の村々では、先祖から受け継いだ家や田畑がつぶされるとして激しい反対運動が起きた。

同じ資料に、延宝4年(1676)の反対の訴状の現代語訳がある。出したのは、河内国志紀郡の船橋村・柏原村から西、住吉の手水橋までの村々の百姓だ。訴状は、川底になる村だけでなく、新川の南側にも害が出ると訴えている。南の山から流れてくる水が、北を新川にふさがれ、西は土地が高いために行き場を失い、四、五万石分の土地が水につかる。十か村余りは水の底になって住めなくなる。新川より北の村は、逆に水が足りずに作物が傷む土地になる、という内容だ。

付け替えのあとに何が起きたかも記録に残る。大和川河川事務所の資料では、土地を少しでも失った村は40か村、なくなった家や田畑は約270ヘクタールに及んだ。藤井寺市・松原市・堺市のあたりで農地を失った村では、旧大和川の川筋へ移り住んだり、小作人になったりした人がいて、一家離散した人もあったといわれる。一つの村が新しい川で南北に分かれた例もある。また、新川が西除川と東除川を分断したため、南側の一帯は水はけが悪くなり、大水の時に被害を受けるようになった。

延宝4年(1676)の反対の訴状が挙げた心配を、南北の断面で示した模式図。新川の川底になる村、南の山から流れてくる水が行き場を失い四、五万石分の土地が水につかること、新川より北の村は水が足りずに作物が傷むこと。
延宝4年(1676)の反対の訴状が挙げた心配を、南北の断面で示した模式図。新川の川底になる村、南の山から流れてくる水が行き場を失い四、五万石分の土地が水につかること、新川より北の村は水が足りずに作物が傷むこと。

どんな道具と工法で、何か月で掘ったのか

幕府が付け替えを正式に決めたのは元禄16年(1703)10月28日だ。翌年の2月27日、工事は川下にあたる堺の海側から始まった。絵図『河内堺新川絵図』には、この日が「御鍬初(おくわぞめ)」と記されている。

宝永元年(1704、元禄17年の途中で改元)10月13日、付け替え地点の古い堤を切り崩して水の向きを変え、元の川筋をふさいで工事を終えた。このふさいだ場所が築留だ。大和川河川事務所の資料は、工事日数を225日としている。

柏原市によると、工事の前に正確な測量を行い、堤を築くのに要る土の量と、掘り下げる土の量がほぼ同じになるように計算した。付け替え地点から海までの高低差は約20メートルだった。

工法の中心は、川底をあまり掘らずに両側へ堤を築くやり方だった。新川の流れに合う低く平らな土地は、田畑をそのまま川底にして堤を盛った。瓜破台地や浅香山のような高い土地では、川底の深さまで掘った。川底の傾きは、1町(109メートル)進んで4寸(12センチ)下がる計画だった。

道具は人の手で使うものだった。柏原市によると、クワやスキで土を掘り、その土をモッコ(土を入れて運ぶ道具)で運んで堤を造った。人手は見積もりで244万人、実際には300万人近くを要し、毎日1万人が働いた。働いた人は日当をもらい、現場近くの農家に宿賃を払って泊まり込んだ。付近の農民が強制的に駆り出されたことはない、と柏原市は説明している。

工事は幕府と大名の分担で進んだ。最初に命じられた姫路藩は、藩主の本多忠国が3月に急死して引き揚げた。その後は上流側の5.7キロメートルを幕府が直接受け持ち、下流側を岸和田藩・三田藩・明石藩が2.5キロメートルずつ分けた。費用は約71,500両で、そのうち約37,500両を幕府、約34,000両を各藩が負担したとされる。

できあがった新川の幅は100間(約180メートル)だった。堤は北岸が高さ3間(約5.4メートル)、南岸が2.5間(約4.5メートル)で、北側の土地が低いために北岸を大きくしたという。南からの水を集める落堀川も掘られたが、その長さは大和川河川事務所の資料が約3キロメートル、柏原市が約10キロメートルとしていて、一致しない。

新川の工事の分担を、柏原(上流)から堺(下流)への一本の帯で示した図。上流側の5.7キロメートルを幕府が直接受け持ち、下流側を岸和田藩・三田藩・明石藩が2.5キロメートルずつ分けた。最初に命じられた姫路藩は、藩主の急死で引き揚げた。
新川の工事の分担を、柏原(上流)から堺(下流)への一本の帯で示した図。上流側の5.7キロメートルを幕府が直接受け持ち、下流側を岸和田藩・三田藩・明石藩が2.5キロメートルずつ分けた。最初に命じられた姫路藩は、藩主の急死で引き揚げた。
新川の断面を二つ並べた模式図。平地の区間は田畑をそのまま川底にして堤を盛り、台地の区間(瓜破台地・浅香山など)は川底の深さまで掘った。川幅は100間(約180メートル)、堤の高さは南岸2.5間(約4.5メートル)、北岸3間(約5.4メートル)。高さは強調して描いている。
新川の断面を二つ並べた模式図。平地の区間は田畑をそのまま川底にして堤を盛り、台地の区間(瓜破台地・浅香山など)は川底の深さまで掘った。川幅は100間(約180メートル)、堤の高さは南岸2.5間(約4.5メートル)、北岸3間(約5.4メートル)。高さは強調して描いている。
クワやスキで土を掘り、モッコで運んで堤を造る作業の様子を描いた挿絵。
クワやスキで土を掘り、モッコで運んで堤を造る作業の様子を描いた挿絵。

付け替えで、河内平野の使われ方はどう変わったのか

付け替えは、川の向きだけを変える事業ではなかった。大阪府は、旧大和川の川跡に綿作地や新田が開かれたと説明している。国土交通省の「日本の川」のページは、古い川や池が新田に変わり、その面積が約1,000ヘクタール、新しい流路で失われた土地の4倍近くに達したと紹介している(大和川河川事務所の付け替え300周年の資料は、付け替えから5年後に約1,050ヘクタールとする)。

同じ事務所の付け替え300周年の資料によると、新田開発は付け替えの翌年の宝永2年(1705)から、旧川筋や新開池・深野池で始まった。最大のものは、大坂の両替商・鴻池善右衛門宗利が開いた鴻池新田だ。旧川筋は砂地で米づくりに向かず、主に綿が植えられて「河内木綿」の産地になった。

付け替え後の旧川筋に広がる綿畑を思わせる想像の景色(挿絵)。実際の地形・建物の再現ではない。
付け替え後の旧川筋に広がる綿畑を思わせる想像の景色(挿絵)。実際の地形・建物の再現ではない。

川の工事は、ある場所の水害を減らす一方で、別の場所の地形や暮らしを変える。地図を読む時は「改善された」「失われた」と一つの言葉で終わらせず、川筋の変更が土地利用を組み替えた事実を見ておきたいところだ。

旧大和川を資料で比べる三つの視点を示した模式図。公開資料を読むための模式図であり、個別土地の安全性や災害リスクを判断しない
旧大和川を資料で比べる三つの視点を示した模式図。公開資料を読むための模式図であり、個別土地の安全性や災害リスクを判断しない

付け替え前の地図は、どこで見られるのか

画面で見るなら、堺市立図書館のデジタル郷土資料展「絵図にみる堺と大和川付替え300年」がある。寛永16年(1639)の『寛永泉州大絵図』の抄録の写しは付け替え前の堺を描いたもので、大和川はまだない。流域の村々への告知のために配られた『河内堺新川絵図』には、付け替え後の川が「新川」と書かれ、工事の始まった2月27日に「御鍬初」とある。

河内側の姿は、柏原市立歴史資料館が所蔵する中家文書(市指定文化財)で確かめられる。付け替え前の河内平野を描いた「大和川付替摂河絵図」、計画の川筋を描いた「新川計画川筋比較図」、付け替え地点から海までの地面の高さを測った「地形高下之事」などがあり、柏原市の「付け替え工事」のページに図版とともに載っている。同館は毎年、秋の企画展で大和川の付け替えを取り上げている。

本や図録から探すなら、大阪府立図書館の調査ガイド「大和川の付け替え工事について」が入口になる。百科事典・地名辞典から、沿岸の市の市史(史料編で古文書に当たれる)、堺市博物館の『大和川筋図巻をよむ』などの展示図録へ進む順番が示されている。

明治時代の地図まで下るなら、国土地理院の地理院地図で「明治期の低湿地」を重ねる方法もある。明治期に作られた2万分1の地図から、河川・湖沼・湿地などの範囲を抜き出したデータで、地区によっては旧河道も区分されている。明治の地図は付け替えから180年ほど後のものなので、元の川筋そのものではなく、その跡が当時どう残っていたかを見る資料になる。

付け替え前の地図を見られる場所を四つに分けた図。画面で見るなら堺市立図書館「絵図にみる堺と大和川付替え300年」、資料館で見るなら柏原市立歴史資料館(中家文書)、本で探すなら大阪府立図書館の調査ガイド、明治の地図を重ねるなら地理院地図「明治期の低湿地」。
付け替え前の地図を見られる場所を四つに分けた図。画面で見るなら堺市立図書館「絵図にみる堺と大和川付替え300年」、資料館で見るなら柏原市立歴史資料館(中家文書)、本で探すなら大阪府立図書館の調査ガイド、明治の地図を重ねるなら地理院地図「明治期の低湿地」。

旧河道を、今の地図の一本の線にしてよいのか

古い川筋をたどると、細い水路や不自然に曲がる道に出会う。けれども、それだけで旧河道だと決めることはできない。後からつくられた用水路や道路、区画整理の影響もあり得るからだ。旧河道という言葉は、歴史を読むための手掛かりであって、現在の地盤や災害の判断を代わりにしてくれるものではない。

防災情報が必要なときは、国・大阪府・自治体が現在公開しているハザードマップや避難情報を確認する。古地図は、その補助ではなく、町がどのように形づくられてきたかを知る資料として使うのが適切だ。

古地図と今の地図は、どの順で比べればよいか

最初に、付け替え前の流れが北へ分かれていたこと、付け替え後は西へ向かったことを大づかみにする。次に、柏原、石川、玉串川、長瀬川、築留といった地名を古地図で探す。最後に、現在地図で道路や水路との位置関係を眺める。

合わない場所が出るのは自然なことだ。地図の作成時期と縮尺を確認し、分からない部分を「推定」として残す。その余白があるからこそ、旧河道を現在の土地に無理に当てはめず、河内平野の長い変化を読むことができる。

地名は、地図の比較を始めるための良い案内役だ。玉串川、長瀬川、築留といった名前は、昔の水の流れや付け替え工事との関係を考える入口になる。ただし、同じ名前の水路がいつから現在の形になったのかは別に確かめる必要がある。名称が残ることと、河道がそのまま残ることは同じではない。

古地図を使う目的は、現在の土地を「昔は川だった」と決めることではなく、川が土地利用、村、道、農地にどんな影響を与えたかを知ることだ。見比べた地図に日付を添え、根拠が弱い箇所を色分けせず文章で留保する。

関連リンク

本文は川筋の歴史を解説するものだ。現在の浸水リスク、地盤、土地利用を判断する資料ではない。防災行動は必ず各自治体の最新情報に従う。

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