大和川の付け替え(宝永元年)と大和橋|何があった場所か
宝永元年(1704)、河内平野の洪水対策のため大和川は柏原付近から西へ流路を変えられ、堺の町の北側を流れて海に注ぐ今の姿になった。約8か月の突貫工事だったと伝わる。大和橋は同じ年に架けられた紀州街道の橋で、幕府直轄の公儀橋だった。

時のながれ
- 江戸前期 — 河内平野で洪水が繰り返され、中甚兵衛らによる付け替えの請願運動が半世紀近く続いたとされる。
- 1704年(宝永元)2月 — 付け替え工事に着手。柏原付近から西へ、堺の北側へ抜ける約14.3kmの新流路を掘る。
- 1704年(宝永元)10月 — 約8か月で新大和川が完成。9月には紀州街道の大和橋も開通した。
- その後 — 新川の土砂が堺港に堆積して港が浅くなり、堺の湊は機能低下に悩まされたと記録される。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 新川の土砂が河口南側の堺港に堆積し、防波堤が埋没して港の機能低下を招いたことも記録されている。付け替え運動の中心人物は河内の中甚兵衛である。
そのため、このページではこうしています
- 旧川筋の新田開発や河内木綿は、川の河内側での出来事である(この地点は堺側の河口部にあたる)。
- ピンは大和橋の左岸(堺区並松町)である。
現地確認: 未実施
参考・出典
- 大和川付替えの頃(堺市立図書館 郷土資料デジタルアーカイブ)
堺市立図書館 - 大和川付替え - Wikipedia
Wikipedia - 大和橋 - Wikipedia
Wikipedia
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 鉄炮鍛冶屋敷と「鉄砲町」(鉄砲鍛冶の町の痕跡)(地の痕跡・約650m)
- 住吉行宮跡(正印殿跡・後村上天皇崩御の地)(死の痕跡・約1.6km)
- 住吉高燈籠(かつての海岸線を示す灯台跡)(水の痕跡・約1.9km)
- 住吉大社(西向き本宮と航海の守護)(方位の痕跡・約1.9km)