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御用水跡街園(名古屋城の堀へ水を引いた用水の跡)|何があった場所か

自治体史・公的アーカイブ・碑文や現地の掲示など、一次資料で内容を確認済みの情報です。
位置精度: 町域 / 最終確認日: 2026-09-07

名古屋市北区を流れる黒川の岸に、細長い緑地が1.6キロメートルにわたって続く。名古屋市北区役所の史跡散策路の案内は、この御用水跡街園について、尾張藩時代に用水路としてきり開かれたが埋めたてられ、昭和49年、夫婦橋から猿投橋までの約1.6キロメートルが黒川岸の桜とともに緑の散歩道として生れ変ったと記す。

もとの水路が向かっていた先は、名古屋城だった。名古屋市緑政土木局は、寛文3年(1663)に名古屋城のお堀に水をひくため御用水が開削され、守山区竜泉寺下で庄内川から取水した水が矢田川の下を暗渠でくぐって名古屋城のお堀に入るようになったと記す。同局は、この結果、水源のなかった堀川に、お堀を経由して庄内川の水が流入するようになったとも説明する。城の堀は、川へ水を送る途中の水路でもあった。

水の道はその後も付け替えられていく。同局は、明和4年(1767)7月の大雨により矢田川の堤防が切れ、幅下付近まで浸水する大きな被害が起きたため、天明4年(1784)冬に大幸川の流路を変えて堀川へつなぐ工事が行われ、堀川が大きく北東へ延長されたと記す。

さらに明治6年から明治10年には、犬山と名古屋をむすぶ舟運と農業用水の取水を目的に、大幸川を改修して流路を付け替え、守山区水分橋で庄内川から分岐し矢田川の下を伏越して堀川にそそぐ川がつくられた。同局は、この川が担当した技師である黒川治愿の名前から黒川と呼ばれていると記す。

現在の姿について、同局は次のように記す。御用水は廃止され御用水跡街園へ、大幸川と江川は暗渠されたことによって、川として堀川だけが残っている、と。つまり緑地の隣をいま流れているのは、江戸の御用水ではなく明治につくられた黒川である。桜の下の散歩道は、城へ水を送るという役目を終えた水路が、形を変えて残ったものだといえる。

御用水跡街園(名古屋城の堀へ水を引いた用水の跡)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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