保久良神社と灘の一つ火|何があった場所か
六甲山系の金鳥山から南へ延びる尾根の上に保久良神社が鎮座する。社頭には石灯籠が立ち、その灯は灘の一つ火と呼ばれてきた。神戸市東灘区総務部まちづくり課がまとめた歴史掘り起こしマップは、保久良神社(灘の一ツ火)の項を設け、日本武尊が大阪湾で航路を見失った夜に北の方角へ一つの光を認め、難波へ帰り着いたという話を、伝説によればと前置きして紹介する。兵庫県の観光サイトも、沖を行く船の道標として灯された灘の一つ火の言い伝えを挙げる。この呼び名は、神社が自ら記す由緒のほかに、市や県の資料にも現れる。 灯りの守り方は神戸新聞の連載記事が伝える。同記事によれば、平安時代まではかがり火を焚き、室町時代以降は灯籠の中で火を燃やし続けた。世話役はお燈明番と呼ばれ、防火のため電灯に変わったのちも北畑天王講の人々がその役を継ぐ。兵庫県神社庁の由緒も、昔はかがり火、近古は種油で神火を絶やさず灯したと述べる。江戸時代に詠まれたという歌、沖の舟人たよりに思ふ灘の一つ火ありがたやが地元に語り継がれてきた。ただし灯り始めた年や、航海の側から目印にしたことを裏づける記録は見あたらない。 尾根一帯は兵庫県立考古博物館の遺跡地名表に保久良神社遺跡の名で載り、時代の欄は弥生、種類の欄は集落に印が付く。石野博信は、樋口清之が社殿を含む百メートル余りの平坦地に十二群の巨石群を数え、巨石の下から銅戈と石斧、石鏃が出たと記録した点を紹介する。その巨石群を磐境と見た樋口の評価には、同じ年に大場磐雄が、配置が人工であるという証拠を欠くと批判を加えた。兵庫県神社庁は延喜式に社格と社名が載ると述べ、石野も延喜式内社と記す。 眺望は南へ開ける。国土地理院の標高データは社頭付近で百八十四メートルを返し、神戸新聞は百八十五メートルと記す。大阪湾は真南、淡路島は南西、生駒山は東にあたる。参道は住宅地の先から急な坂が続き、兵庫県神社庁は登山道のため一般車は進入禁止と明記する。

時のながれ
- 弥生時代 — 尾根の上の平坦地に人が暮らす。兵庫県立考古博物館の遺跡地名表は、この一帯を保久良神社遺跡として登録し、時代の欄は弥生、種類の欄は集落に印を付す。巨石群の間からは土器が、巨石の下からは銅戈と石斧、石鏃が見つかったと石野博信が伝える。
- 平安時代 — 兵庫県神社庁は延喜式に社格と社名が載ると述べ、石野博信も延喜式内社と記す。神戸新聞によれば、この頃まではかがり火を焚いた。
- 鎌倉時代 — 兵庫県神社庁は、『摂津誌』に建長2年(1250年)の重修の棟札を所持する旨の記載があると述べる。近年の改築時には鎌倉期の青銅製懸仏が瓦の下から見つかったとも記す。
- 室町時代 — 神戸新聞によれば、この頃から灯籠の中で火を燃やし続けるかたちに変わる。
- 江戸時代 — 沖の舟人たよりに思ふ灘の一つ火ありがたや、の歌が詠まれ、地元に語り継がれる。兵庫県神社庁は、種油で神火を絶やさず灯し続けたと述べる。
- 1942年(昭和17年) — 樋口清之が『攝津保久良神社遺蹟の研究』を著し、巨石群を磐境と評価する。同じ年、大場磐雄が『考古学雑誌』で、配置が人工であるという確たる証拠を欠くと批判を加える。
- 1952年(昭和27年) — 5月12日、関西学院大学史学科の一行が銅戈出土地点近くの巨石群で半日の発掘を行う。出土は土器片少々で、のちに石野博信は準備不足で発掘調査と言えるものではなかったと振り返る。
- 1962年〜1967年 — 社殿の北方の金鳥山で弥生土器の包含層が確認され、神戸市教育委員会の諒解を得た調査の成果が1967年に報告される。
- 現在 — 神戸新聞によれば、防火のため灯は電灯に変わり、北畑天王講の人々が神社の行事を担う。兵庫県神社庁は、参道が登山道で一般車は進入禁止と記す。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 神戸市東灘区総務部まちづくり課の歴史掘り起こしマップは、保久良神社(灘の一ツ火)の項を設け、所在を本山町北畑ザクゲ原・保久良神社鳥居前と記す(更新日2020年10月5日)。
- 同マップは、日本武尊が大阪湾で航路を見失い、北の方角に一つの光を認めて難波へ帰り着いたという話を、伝説によればと前置きして紹介する。
- 神戸新聞の社寺巡礼の記事(岡西篤志、2011年8月11日掲載・2022年5月13日再掲)は、灘の一つ火を保久良神社の社頭にそびえる大きな石灯籠と説明し、標高を185メートルと記す。
- 同記事は、平安時代まではかがり火を焚き、室町時代以降は灯籠の中で火を燃やし続けたと述べ、世話役の呼称をお燈明番、防火のため電灯に変わったのちの担い手を北畑天王講の人々と記す。
- 同記事は、江戸時代に詠まれた歌、沖の舟人たよりに思ふ灘の一つ火ありがたやが地元に語り継がれてきたと述べる。
- 兵庫県神社庁の神社検索は、主祭神を須佐之男神、配祀神を大歳御祖神・大国主命・椎根津彦命と記し、由緒に、昔はかがり火を燃やし近古は種油にて神火を点じつづけ1日も絶やさず奉仕を伝承してきたと述べる。
- 兵庫県立考古博物館の遺跡地名表は、遺跡番号011018に保久良神社遺跡を載せ、所在地を神戸市東灘区本山町北畑、本山町田辺とし、時代の欄は弥生、種類の欄は集落に印を付す。
- 石野博信の論文(神戸市保久良神社境内、銅戈出土地の発掘、関西学院考古10号、2007年、3から8頁)は、樋口清之が社殿を含む約100メートル余の平坦地に十二群の巨石群を数え、その間から弥生中期中葉の土器や銅戈が採集されたと記録した点を紹介し、巨石群の巨石下から銅戈と石斧、石鏃が出土したと述べる。
- 同論文は、保久良神社遺跡を標高180メートルの尾根上にある弥生の高地性集落とし、背後の金鳥山遺跡と本来は一体のものと見る見方を示し、あわせて延喜式内社でもある保久良神社と記す。
- 同論文は、1952年5月12日に関西学院大学史学科の藤木助教授ほか学生10名が半日の発掘を行い、出土は土器片少々で、準備不足で発掘調査と言えるものではなかったと振り返る。
- 国土地理院の標高データは、社殿位置(北緯34.73555度、東経135.27803度)で184.3メートルを返す。
- 兵庫県神社庁は、交通・車の欄に登山道のため一般車は進入禁止と記し、駐車場をなしと記す。
そのため、このページではこうしています
- 日本最古の灯台、太陽信仰の聖地、レイラインは出所に到達できず不採用とした。
- カタカムナ文献にまつわる説は公的資料・学術資料に到達できず不採用とした。
- 文政8年の灯籠建立年は出典が確認できず不採用とした。
- 磐境の評価は樋口説と大場の批判を両論併記とし、どちらにも決めなかった。
- 参道が急な坂の山道で一般車が進入できない点を明記し、安易な訪問を促さないよう配慮した。
- 銅戈を桜ヶ丘の国宝と取り違えないよう、出土地の別を明確に分けて示した。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 石灯籠の建立を文政8年(1825年)とする記述は旅行系の商業サイトに見られるが、出典の記載がなく、公的資料・学術資料には到達できなかった。
- 灯りがいつ始まったのか、また航海の側から実際に目印にしたことを裏づける記録(船の記録・海図・幕府や藩の文書)には到達できなかった。
- 出土した銅戈の現在の所蔵先を確認できなかった。石野論文は樋口の調査当時に猿丸社司が保管したと記すが、その後の移管を示す記録には到達できなかった。神戸市立博物館の所蔵品検索でも保久良出土の銅戈は見あたらない。
- 磐座・巨石群が国・県・市の指定文化財である旨の記載は、兵庫県立考古博物館の遺跡地名表の備考欄にも神戸市の文化財案内にも見あたらない。同表では処女塚古墳の備考欄に一部国指定史跡と入るため、備考欄が空であることは指定の無さを示す可能性が高い。
- 日本最古の灯台とする記述は旅行予約系の商業サイトに見られるが、公的資料には到達できなかった。兵庫県の観光サイトにもこの表現は見あたらない。
- 太陽信仰の聖地、レイラインに類する主張は、出所となる資料に到達できなかった。
- 光達距離を32海里とする数値は商業サイトの計算で、根拠の記載がなく採用できなかった。
- 銅戈の指定区分について、兵庫県神社庁の由緒は重美に認定された銅戈と記し重要美術品を指すが、Wikipediaは重要文化財と記す。いずれの指定を示す官報・文化庁の一覧にも到達できず、両者は一致しない。なお国宝の桜ヶ丘銅鐸・銅戈は神戸市灘区桜ヶ丘町の別の遺跡の出土品であり、混同されやすい。
- 祭神について、神戸新聞は椎根津彦命を祀ると記すが、兵庫県神社庁は主祭神を須佐之男神とし、椎根津彦命を配祀神と記す。
- 標高について、石野論文は180メートル、神戸新聞は185メートル、国土地理院の標高データは184.3メートルを示す。
- 巨石群の解釈について、樋口清之は人工の列石による磐境の遺跡と評価したが、大場磐雄は岩石の配置が人工であるという確たる証拠を欠くと批判した。両説は一致しない。
参考・出典
- タウンマップ 歴史掘り起こしマップ 保久良神社(灘の一ツ火)
神戸市東灘区総務部まちづくり課 - <社寺巡礼>保久良(ほくら)神社 (神戸市東灘区本山町北畑) 舟人守る「灘の一つ火」
神戸新聞社 - 保久良神社|兵庫県神社庁 神社検索
兵庫県神社庁 - 兵庫県遺跡地名表
兵庫県立考古博物館 - 神戸市保久良神社境内、銅戈出土地の発掘(石野博信、『関西学院考古』10号、3-8頁)
奈良文化財研究所 全国遺跡報告総覧 - 関西学院考古 第10号(書誌・本文PDF)
関西学院大学考古学研究会 / 奈良文化財研究所 - 保久良神社|スポット|兵庫県観光サイト 兵庫観光ナビ
兵庫観光ナビ(兵庫県観光サイト) - 攝津保久良神社遺蹟の研究(樋口清之著、國學院大學驗杉會、1942年)
CiNii Books(国立情報学研究所)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 阪神大水害の水災紀念碑(住吉川・落合橋)(水の痕跡・約1.7km)
- 石屋川の天井川と旧石屋川隧道跡(水の痕跡・約3.3km)
- 御影公会堂(神戸大空襲で外壁を残して焼けた建物)(戦の痕跡・約3.4km)
- 敏馬の泊と敏馬神社(海が遠のいた万葉の歌枕)(水の痕跡・約6.5km)