池田屋事件の跡(三条小橋のたもと・池田屋騒動之址の石標)|何があった場所か

元治元年(1864)6月5日、三条小橋のたもとにあった旅籠池田屋で、会合中の尊王攘夷派の志士が新選組に襲撃された。旅籠そのものは残らず、跡地に建つ建物も当時のものではない。三条通木屋町西入の北側に、昭和2年建立の池田屋騒動之址の石標が立つ。
時のながれ
- 文久3年(1863)8月18日 — 八月十八日の政変により京都は公武合体派の勢力下に置かれ、尊王攘夷派の志士の活動が圧迫された。
- 元治元年(1864)6月5日 — 三条の池田屋で会合中の志士が新選組に襲撃され、多数の死傷者が出た。
- 元治元年(1864)7月19日 — 長州藩が挙兵上洛し、蛤御門の周辺などで禁門の変が起きた。池田屋事件をきっかけに藩内が進発論に転じたとされる。
- 昭和2年(1927)11月 — 京都市教育会が池田屋騒動之址の石標を建てた。
- 平成14年(2002)2月7日 — 京都市が石標を調査し、所在地と位置座標を記録した。
現地の写真




編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 石標の名称・所在地・寸法・建立の記録は、京都市のいしぶみデータベース(NA033 池田屋騒動址)で確認した。所在地は中京区三条通木屋町西入北側、建立年は1927年、建立者は京都市教育会、南面の碑文は 維新史蹟 池田屋騒動之址 と記録されている。
- 事件の日付は、同じく京都市のいしぶみデータベースで元治元(1864)年6月5日と確認した。京都市公式の京都観光Naviも、1864年(元治1)6月の出来事として池田屋跡を紹介している。
- 背景については、文久3(1863)年8月18日の政変後に京都で公武合体派が勢力を伸ばし尊王攘夷派が圧迫されたこと、長州・土佐・肥後などの志士が勢力回復をめざしたことを、京都市のいしぶみデータベースの解説で確認した。
- 禁門の変が元治元年(1864)7月19日に長州藩と会津藩・薩摩藩らの間で起きたこと、および元治元年6月の池田屋事件をきっかけに長州藩内が進発論に転じたことは、山口県立山口図書館の資料展示ページで確認した。
- 池田屋が三条小橋の旅館であったことは、改訂新版 世界大百科事典および旺文社日本史事典の記述で確認した。
- 石標の位置は、京都市が世界測地系で北緯35度00分32.8秒/東経135度46分11.3秒として公表している。
- 三条通に面した建物の店先に「池田屋騒動之址」の石標が立っていることを、現地で確認した(2026-08-22 撮影)。
- 石標のそばに解説パネルが掲げられている。池田屋の見取り図、騒動の顛末、殉難した人々の名などが載り、見取り図には明治時代の池田屋の外観写真が「改装はしているものの騒動当時のままである」という説明とともに添えられている(2026-08-22 撮影)。
- そのパネルの「池田屋騒動殉難者供養の日」の一節は、三条小橋商店街振興組合の名で記されている。七月十五日(旧暦六月五日・祇園祭宵々山)を池田屋騒動が起こった日とし、商店街ではこの日を供養の日と定めて、倒幕派・新撰組・佐幕派という区別をせずに、国を憂い近代国家の礎になった方々を供養すること、焼香台を設けたので自由に焼香して静かに手を合わせてほしいことが書かれている(2026-08-22 撮影)。
- 同じパネルは、池田屋の主人・池田屋惣兵衛(42)について、天保年間から三条小橋西詰で旅篭「池田屋」を営み、長州藩の定宿で長州びいきであったこと、近藤勇に殴られたのち翌日に投獄され、六月十三日に牢内で病死したことを記す。墓碑所在地は浄円寺(上京区下立売七本松西)とある(2026-08-22 撮影)。
- 跡地の建物には「池田屋」の屋号を掲げた飲食店が入っており、三条通に面して袖看板が並んでいることを確認した(2026-08-22 撮影)。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、京都市が石標そのものについて公表している位置である。
- 跡地に現在建つ建物は事件当時の旅籠ではない。京都観光Naviは当地の現況を飲食店と記す。
- 跡地では現在も店が営業している。写真は石標と解説パネル、通りに面した看板までとし、店内や品書きが主になるものは外した。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 旅籠池田屋の建物がいつまで残り、いつ取り壊されたかについては、自治体公式などの一次資料に到達できなかった。
- 現地には石標のほかに解説パネルが掲げられているが、自治体が設置した駒札にあたるものは編集部では見つけられなかった。掲示のうち「池田屋騒動殉難者供養の日」の一節は三条小橋商店街振興組合の名で記されている(2026-08-22 撮影)。
- 石標の刻字について、京都市のいしぶみデータベースは南面を「維新史蹟 池田屋騒動之址」と記録している。現地で撮影できたのは斜めからの一枚で、摩耗と斜光のため上部の文字は判読できていない。確実に読めたのは「池田屋騒動之址」の部分である(2026-08-22 撮影)。
- 死傷者の数は資料により大きく異なる。京都観光Naviは討幕派7人・新撰組3人が死んだとする。山川日本史小辞典 改訂新版は志士7人を斬殺し23人を捕らえたとする。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典は8人が斬られ4人が負傷し5人が捕えられたとする。日本大百科全書は9名が斬死し二十数名が捕らえられたとする。
- 池田屋に集まっていた志士の人数も食い違う。京都市のいしぶみデータベースは30余名、改訂新版 世界大百科事典とブリタニカ国際大百科事典は20余人、日本大百科全書は約30名とする。
- 石標の所在地表記も資料により幅がある。京都市のいしぶみデータベースは中京区三条通木屋町西入北側とし、京都観光Naviは中京区三条通河原町東入とする。
参考・出典
- NA033 池田屋騒動址(いしぶみデータベース)
京都市(フィールド・ミュージアム京都・公式) - 池田屋跡
京都市公式 京都観光Navi - 明治維新人物ギャラリー資料展示 禁門の変、勃発
山口県立山口図書館(山口県公式) - 池田屋事件(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版 ほか収録)
コトバンク(平凡社・小学館・ブリタニカ・山川出版社の各事典を収録) - 現地の石標「池田屋騒動之址」
京都市中京区・三条通の現地(2026-08-22 撮影確認) - 現地解説パネル「池田屋騒動」(「池田屋騒動殉難者供養の日」の一節は三条小橋商店街振興組合の名で記される)
跡地の現地掲示(2026-08-22 撮影確認)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
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