西高瀬川(文久3年開削の木材運河・千本三条の材木町)|何があった場所か
幕末の文久3年(1863)、丹波の木材などを嵯峨から市中へ運ぶために開削されたと伝わる運河。千本三条界隈には材木商が集まり材木町が形成されたとされる。現在は水の流れが乏しい区間も多いが、川筋が往時の物流を今に伝える。

時のながれ
- 文久3年(1863) — 丹波の木材や穀物を渡月橋上流から市中へ運ぶ運河として開削されたと伝わる(開削者は河村与三右衛門とされる)。
- 明治3年(1870) — 京都府が改修・延伸し、伏見で鴨川まで通じたとされる。木材輸送の主ルートとなる。
- 明治期 — 千本三条から四条にかけて材木商が集まり、材木町が形成されたとされる。木屋町から移った商家もあったと伝わる。
- 現代 — 天神川の改修で水の大半が天神川へ注ぐようになり、市街地区間では水の流れない日も多い。川筋と木材関連の社名・地名が往時を伝える。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 開削年と目的、明治3年の京都府による延伸、材木町の形成を、複数の資料で確認した。天神川の改修後、市街地の区間で水が流れることは稀である。
そのため、このページではこうしています
- ピンは材木町が形成されたと伝わる千本三条交差点の付近で、川は線状に伸びるため推定である。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 京都市の公式による直接の記述には到達していない。市の都市史のページが扱っているのは高瀬川本体である。
参考・出典
- 西高瀬川
Wikipedia(『京都大事典』等の脚注付き) - 千本三条と西高瀬川、材木商、そして、昔の映画
おもちゃ映画ミュージアム
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 神泉苑(平安京の禁苑の跡・二条城の築城で縮小した苑池)(水の痕跡・約588m)
- 本能寺跡(本能寺の変の舞台・現在の寺町御池とは別の旧地)(戦の痕跡・約1.1km)
- 平安宮 大極殿跡(千本丸太町・内野児童公園の大極殿遺址碑)(地の痕跡・約1.2km)
- 聚楽第跡(豊臣秀吉の政庁・文禄4年の破却で消えた城)(地の痕跡・約1.8km)