大地震両川口津浪記石碑(大正橋東詰)|何があった場所か
安政南海地震(1854年)の津波で、川の船に避難した人々が犠牲になったことを伝える石碑。碑文は「大地震のときは決して船に乗るな」という教訓と、「毎年文字に墨を入れてほしい」という後世への頼みを刻む。建立から170年あまり、地元住民による墨入れと供養がいまも続く。大阪市指定有形文化財・国土地理院の自然災害伝承碑。

時のながれ
- 1707年(宝永4)10月 — 宝永地震。小舟に乗って津波で溺死した人が多かったと伝わる——147年後、碑文がこの教訓の風化を書き残すことになる。
- 1854年(嘉永7)11月4日 — 安政東海地震。大阪の人々は余震を恐れ、多くが小舟に乗って川へ避難した。
- 11月5日 — 安政南海地震。日暮れ頃、津波が安治川・木津川を遡上。碇綱の切れた船が川上へ押し流されて多数の橋を落とし、川に避難していた人々が犠牲になった。
- 1855年(安政2)7月 — 幸町五丁目の木津川渡し場——人通りの多い場所——に碑が建立される。碑文は教訓とともに「年々文字よミ安きやう、墨を入給ふへし」と結ばれた。
- 明治〜昭和 — 明治24年(1891)に花立・線香立が寄附され、昭和49年(1974)の架け替え時に玉垣・石灯籠が設置される。
- 2004〜2006年 — 阪神なんば線関連工事で東詰北30mへ一時移転し、2006年4月12日に元の位置へ戻して開眼法要が営まれた。
- 現代 — 大阪市指定有形文化財。国土地理院の「自然災害伝承碑」として地図に掲載され、毎年8月下旬の地蔵盆に地元住民による墨入れと供養が続いている。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 碑は2004年から2006年にかけて阪神なんば線関連の工事で30mほど移されたのち、2006年4月12日に元の位置へ戻された。
- 碑文への墨入れは、毎年8月下旬の地蔵盆に、地元の保存運営委員会によって今も続けられている。
そのため、このページではこうしています
- 碑文にある「百四十八ケ年前」は、実際には147年前にあたる。
- この碑は供養塔でもある(西面に南無阿弥陀佛と刻まれている)。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 文化財指定の日付を確認できる公式ページは見つからなかった。
- 犠牲者の数は、273人とする資料と350人とする資料があり、同じ範囲を数えたものか確認できていない。碑文そのものは人数を刻んでいない。
参考・出典
- 大地震両川口津浪記石碑(安政大津波の碑)
大阪市浪速区(公式) - 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1854安政東海地震・安政南海地震 第3章
内閣府(中央防災会議) - 長尾武「『大地震両川口津浪記』にみる大阪の津波とその教訓」京都歴史災害研究第13号
立命館大学歴史都市防災研究所 - 自然災害伝承碑に学ぶ
大阪府(公式) - 大地震両川口津浪記(石碑)
消防防災博物館
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