堺環濠都市の濠跡(土居川・内川)|何があった場所か
中世の自治都市・堺を囲んだ環濠の名残と伝わる土居川と内川。大坂夏の陣後の元和の町割で掘り直され、昭和40年代に北・東側は埋め立てられたが、南・西側には今も水路が残る。

時のながれ
- 15〜16世紀(戦国期) — 海外貿易で栄えた堺の商人が、西を海、他の三方を濠で囲む自治都市を形成したと伝わる。濠は幅10m以上で二重に巡る箇所もあった。
- 天正14年(1586) — 豊臣秀吉が環濠の埋め戻しを命じ、濠は段階的に埋められたとされる。
- 慶長20年(1615) — 大坂夏の陣で豊臣方の焼き討ちに遭い、約2万戸が焼失したと伝わる。
- 元和期(1615年以降) — 江戸幕府による元和の町割で碁盤目状に再建され、旧環濠の外側に濠が掘り直された。これが現在の土居川とされる。
- 宝永元年(1704) — 大和川の付け替えで堺港が土砂で浅くなり、旧海岸線沿いに新たな濠が掘られた。これが現在の内川とされる。
- 昭和40年代 — 環濠のうち北側と東側が埋め立てられ、東側は土居川公園・国道26号・阪神高速15号堺線などに転用された。
- 現在 — 南側・西側の土居川と内川が水路として現存し、環濠都市の面影を伝えている。旧東濠跡は土居川公園として整備されている。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 堺市の公式によれば、環濠は戦国期に商人が築き、豊臣秀吉が天正14年(1586年)に埋め戻しを命じた。大坂夏の陣(1615年)で約2万戸が焼失したのち、江戸幕府の元和の町割で掘り直されたのが現在の土居川である。1704年の大和川付け替えのあと、旧海岸線沿いに掘られたのが内川にあたる。
そのため、このページではこうしています
- 土居川・内川の呼び分けは資料によって異なる。堺観光ガイドの約2km・約500mは現存する区間の長さであり、別の資料の区分は水系上の呼称である。同じものを測っていないため、長さの矛盾としては比較できない。
- 座標は、旧東側の環濠跡に整備された線状の土居川公園の中間を代表点とした推定である。
現地確認: 未実施
参考・出典
- わたしたちの川 内川・土居川
堺市 - 堺環濠都市遺跡
堺市 - 環濠都市・堺。500年の歴史&ロマンをめぐって
公益社団法人堺観光コンベンション協会(堺観光ガイド) - 内川 (大阪府)
Wikipedia
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 第6回大阪大空襲の被災域(堺市街中心・堺大空襲)(戦の痕跡・約658m)
- 旧天王貯水池(明治の煉瓦造水道遺構)(水の痕跡・約1.3km)
- 方違神社(堺市・方除けの社)(方位の痕跡・約1.3km)
- 大浜公園と堺水族館跡(第5回内国勧業博覧会第2会場)(地の痕跡・約1.6km)