いたち川跡(くり舟発掘の碑・浪速区)|何があった場所か
浪速区を東西に流れ、昭和29年までに全域が埋め立てられた川の跡。四天王寺建立の木材を運ぶため開かれたと伝わる。明治11年の工事中に一千年以上前と推定されるくり舟が出土し、難波中に発掘の碑が残る。旧町名「船出町」の由来にもなったとされる。

時のながれ
- 古代(伝承) — 四天王寺建立の際、船で運ばれた諸国の木材を運搬するために開削されたと伝わる。イタチが掘り進めたという川名の言い伝えも残る。
- 1878年(明治11) — 鼬川と難波新川の連絡工事中に、一千年以上前のものと推定される樟製のくり舟(長さ約7.7m)が発掘される。発掘地の町名「船出町」の由来になったとされる。
- 1940年(昭和15) — 汚濁が激しくなり、大半が埋め立てられる。
- 1954年(昭和29)3月 — 全域の埋め立てが完了し、川筋は道路などに変わった。難波中3丁目に「鼬川くり船発掘の碑」が残る。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 大阪市浪速区の公式で、1878年(明治11年)の連絡工事中にくり舟が発掘されたこと(長さ約7.7m・樟製・複材式・一千年以上前と推定)、「鼬川くり船発掘の碑」が難波中三丁目にあること、発掘地の町名「船出町」の由来を確認した。流路と埋立(汚濁のため1940年に大半、1954年3月に全域)も確認した。
そのため、このページではこうしています
- ピンは碑のある難波中三丁目の町域の中心で、碑そのものの正確な位置は確認できていない。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- イタチが掘り進めたという名の伝承と、四天王寺の建立時に開削されたとする説は、いずれも伝承の域を出ない。
参考・出典
- 浪速区制100周年プレ企画 ルックバック浪速区(第2回難波元町地域)
大阪市浪速区(公式) - いたち川 (大阪市) - Wikipedia
Wikipedia(補助資料)
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